僕がアマチュアの方々との音楽でのおつきあいが本格化したのは、1988年頃からだった。
東京芸術大学大学院を修了し、西ドイツ留学から帰国して少しした頃からである。
もちろん、それ以前からも断続的におつきあいはあった。
しかし、それに本腰を入れる勇気が、その頃はまだ持てないでいた。
その理由は至極簡単だ。たった一言。
「楽しいから」だ。楽しくて、本業の声楽の修業を忘れてしまうと思ったからだ。
実は、僕のアマチュア音楽体験は吹奏楽のそれであって、合唱は芸大の声楽科の授業が生まれて初めてのものだった(それが何とブラームスの《ドイツ・レクイエム》!)。
僕の合唱体験は芸大の合唱と、学生時代にエキストラで加わった諸団体でのものだけであった。
そして、芸大の授業で田中信昭先生に出会った。
田中先生には、今でも迷いが生まれると、練習を見学させていただいたりしている。
その田中先生の言葉で、いくつか忘れられない「金言」とも呼ぶべきものがある。
曰く「音楽に正解はない」「音程が合っていなければ合唱じゃない。表情がなければ音楽じゃない。この二つをすれば良いだけ」「合唱とは、自分の歌を聴いてもらうこと。聴いてもらうためには、他人の歌も聴かなければならない」メモしたわけではないから、まったくそのままではないかもしれないが、内容は、そんなようなことだったと思う。
アマチュア合唱出身ではない僕は、アマチュアの世界の常識を知らない。僕は「合唱」を特別なものとは思っていない。
歌のひとつの分野、あるいは音楽のひとつの分野と思っている。
だから、合唱界での「非常識」を忘れない。 そんな指揮者としての僕の役目は何だろう。
もちろん、メンバーの誰よりも「勉強」しなくてはいけない。
でも僕の「解釈」にメンバーを従わせることはしたくない。
音程を揃えるのも、アンサンブルを整えるのも、表現するのも、僕の「支配下」には置きたくない。
僕がすべきことは、メンバーひとりひとりが聴き合う耳を育てること、そして聴き合うお手伝いをすること。
楽曲に対するイマジネーションをふくらませるヒントを差し上げること。
イメージを育むお手伝いをすること。
それらのバランスを見守り、メンバーの自発性を導き出すことだ。
現在の僕は、そう考えている。
例えばモーツァルトの《レクイエム》の「キリエ」と「アニュス・デイ」の最後のDとAだけの和音。
ニ短調で書かれたこの曲の、和音の第三音が書かれていない。
この第三音はFなのかFisなのか?
短三和音のまま終わるべきか?
ピカルディ終止とすべきなのか?
「ラクリモーサ」では明確に第三音をアルトに明記したピカルディ終止になっている(ジャスマイヤーの筆だから、モーツァルトの『天才』とは異なる判断かもしれないが)。
この和音における完全五度とオクターヴの音程はもちろん、完璧でなければならない。
プロの合唱ならば、そこで「仕事」は完了する。
しかし、本番までにたくさんの練習時間をかけられるアマチュアは、ここからがスタートなのだ。
この和音を長三和音とする人は、どんな長三和音とするのか?短三和音とする人は?‥‥‥。
ある人は悲しみの中での祈りの歌を、ある人は穏やかな心の中に神への感謝を、ある人は‥‥‥。
さまざまな想いが交錯しつつ、完璧に和声が共鳴した時には、どんなプロの合唱団も出したことのない、深みと奥行きのある「合唱」が、そこに生まれるのだ。
この「音と言葉の背景」の探求と理解、表現の熟成への執念こそ、アマチュア以外には望めないことなのだ。
アンサンブルとは、究極の「民主主義」である。ひとりひとりが自らの意見と意志を持ち、それを正しく主張する。
そして、その互いの声を聴き合い、より良い結果を導き出して行く。
そこには社会における「個人主義の自由」と「責任感ある秩序」の双方が存在するはずだ。
それが合唱という集団で達成できれば、ソロでは決して生み出し得ない複雑にして玄妙な奥深い音楽表現が生み出されるはずだ。
この手間のかかる手作業は、アマチュアにしかできないことだ。
プロがそんなことをしていたら、仕事にならないからだ。
アマチュアがプロの真似をするのは愚の骨頂だ。
アマチュアには、アマチュアにしかできない音楽の「深み」を、アマチュアだからこそできる音楽の「味わい」を生み出す作業を、根気強く、しかもそこに興味を持って続けて行くべきなのだ。
このことに気づいたときから、僕はこのアマチュアの方々との合唱の「楽しさ」の魔力の虜になってしまった。
今はもう、この「楽しさ」から逃げられないのだ。